Hikari Shimoda Interview

下田ひかりインタビュー

美術作家としてデビュー10年目を迎える下田ひかり。そんな彼女が今年開村130年になる長野県朝日村の朝日美術館で個展を行う。朝日村は彼女の故郷であり、現在も制作の拠点としている場所だ。作品発表の場を海外におきがら、精力的に活動を続けている彼女。一見華やかな経歴にも見えるが、口から出てくる言葉は孤独、絶望、死といったネガティブなもの。彼女がこの村でどんな風に育ち、今に至るのか。絵との出会い、美術作家としてのターニングポイント、そして今回の個展への思いに触れながら、言葉の奥にある思考に触れてみたい。

「自分の世界観とかアイデンティティはなんだろうって考えたときに、
孤独感だということに気づいた」

下田さんが絵を描くことに興味をもつようになったのはいつ頃ですか?
保育園で仲の良かった3・4人の友だちが絵を描くのが好きで、外で遊ばずに教室でずっと絵を描いていました。先生に「もやしになるぞ!」って怒られるくらい(笑)。友だちがみんなすごく上手で、私だけぜんぜん描けないというコンプレックスを抱きながら、友だちが考案したオリジナルキャラクターを模写していたのを覚えています。オリジナルの絵が描けないという劣等感を抱きながらも、絵を描くのは好きでしたね。小学校4年生くらいからは漫画を読むようになって、漫画を描くようになりました。1枚の絵で個性が出せなくても、ストーリーでオリジナリティが出せるので、劣等感を解消してくれる部分があってどんどんはまっていきましたね。
どんな漫画に影響を受けたんですか?
当時もそうですし、今の作品にも絶大なる影響を受けているのは『風の谷のナウシカ』の漫画版ですね。普段は親に外で遊びなさいと言われていたんですけど、雨の日の週末は1本ビデオを観ても良かったので、録画をした金曜ロードショーのジブリ映画を観るのがすごく楽しみで。その中でもナウシカを観た回数は数え切れないです。両親は山菜採りやいなごを獲りに行こうと私を誘うんですけど、ぜんぜん行きたくなくて。週末になると雨が降ればいいのになって思っていました。都会だと近くにお店があって、漫画やカルチャーに触れる機会も多いと思うのですが、朝日村は親に連れて行ってもらわないとどこにも行けないし、文化的なものにふれられるのは図書館くらいだったので、家にある漫画やアニメを繰り返し何度も何度も観たり読んで、欲求を満たしていました。
下田さんが通っていた村で唯一の朝日小学校。
小学生の時は図書館で漫画を借りて読んでいたそう。
6年生の卒業文集では表紙のイラストを担当。
なかなか手が届ない環境だったからこそ、漫画やアニメへの熱量が高まったのもありますか?
それはあったと思いますね。高校に入ってからはネットが出始めて、お絵描き掲示板との出会いが私を救ってくれました。私の父親は仕事柄、最初期のMacを持っていて、ネット環境には割と早い時期から恵まれていました。私が絵を描くのが好きだからとペンタブを与えてくれて、お絵描き掲示板で描くようになったんです。その掲示板はジブリファンの人が管理をして、大好きなジブリのキャラクターを描いて投稿をしていました。掲示板はオリジナルではなく二次創作でいいのですごく気が楽で。
今はネットの中でのコミュニティは当たり前ですが、当時はかなり新しい人とのつながり方ですよね。
そうですね。またそこの掲示板の人たちの雰囲気がすごく良くて、とにかく褒めてくれるんです。しかも1回見た絵には必ずコメントをつけるという暗黙のルールがあって、それまで自分が絵でやってきたことを褒められた経験がなかったので、本当に救われていました。
家族や友だちに絵は見せていなかったんですか?
見せてはいましたが、自信も手応えも全くありませんでした。描きたいものが分からないのでイラストもあまり描けず、オリジナルの絵が描けない劣等感が強かったです。高校は美術部と漫研でしたが、美術部では絵画は全然描きませんでした。ただ漫画は描いて友だちに読んでもらうのは楽しかったです。
絵に対する劣等感を抱きながらも、下田さんは美大へ進学しましたよね。
実は大学の授業ではぜんぜん絵を描いていないんです。京都にある嵯峨美術短期大学に混合表現というクラスがあって、現代アートをやりたいという思いから、美術を広く学べるところを選択しました。アニメーションや映像をつくったり、写真を撮ったり、絵とはぜんぜん違うことをやっていましたね。でも、その時にコンセプトから作品をつくるということを学んだので、作品をつくる上で一番重要な部分を培えた時期だと思います。
大学で絵を描いていなかったのは意外でした。
それでも漫画は描いて投稿をしていました。大学の卒業制作と同時進行で、Webの漫画雑誌のはしりみたいなところに、これがダメだったら辞めようという思いで投稿をしたら入選したんです。編集さんからA4にびっしり熱い思いを綴った手紙を送っていただいて、またぜひ投稿してくださいって書いてくださっていたのに、私は一番にならなかったから漫画はダメだと思って、そこできっぱり諦めました。今思うと、その時に捉え方が違っていたら漫画家という道もあったのかなって(笑)。 特に就きたい仕事もなかったのと、私は受けてもぜったいに落ちると思っていたので就職活動をしないまま大学を卒業しました。
就職しないことへの焦りとかはなかったんですか?
もちろんありました。卒業して実家に帰ってバイトをしながら考えた結果、私はこのまま絵に対してこじらせた感情を抱いたままにしておくと、すごく嫌な人間になるなと思ったんです。それと、挫折や劣等感や悔しさなど絵でうまくいかない経験をしているから、これを他の分野で一から経験をするのはしんどいなって。やるからには仕事にしないと意味がないので、絵で稼ぐならイラストレーターだと思い、東京にある『イラストレーション青山塾』というイラストレーターの先生が講師をしているカルチャースクールへ通うことにしました。それを機に、東京で生活を始めたんです。高円寺の家賃3万のボロアパートに住みながら、リアカーで豆腐を売るバイトをして生活費を稼ぎ青山塾へ通っていました。
豆腐をリアカーで売るバイトをしていた人に会うのははじめてです(笑)
東京へ出てすぐに豆腐の行商に遭遇したんです。見た瞬間にすごくときめいて、私もやりたいなって(笑)。でもアパートにはクーラーもないし、ゴキブリはでるし、お風呂はないしで、嫌になって3ヶ月で帰ってきちゃいました。その後は朝日村の実家からカルチャースクールへ2年通いました。その時に教えてくださっていた先生が、今もイラストレーターとして第一線で活躍されている秋山育さんで。先生に自分でちゃんと稼げるようになるためには、まず自分の世界観を描けるようになれとダメだと言われたのがすごく大きかったです。
自分の世界観を表現するのは、小さい頃からずっと抱えてきた下田さんのコンプレックスですよね。
そうですね。ただ、2年間イラストレーションをやって私はイラストレーションに向いていないことがわかりました。イラストレーションは必ずクライアントがいて、依頼内容があって、それに対して応えていくのが仕事だと思うのですが、その期待に応えるのがすごくプレッシャーに感じてしまうし、人の世界観と自分の世界観を合わせて相乗効果で良くしていくのがすごく苦手で。とはいえ、絵を仕事としてやりたかったので、自分の世界観とかアイデンティティはなんだろうと向き合ってみたら、私、孤独だなって。長女に生まれて親が共働きだったのもあって、子どもの頃から孤独感をいつも抱えているのが自分だということに気づいたんです。昔からモノトーンで描かれている暗いイラストとか、暗くて静かな雰囲気の絵がすごく好きだったのも、自分が小さい頃に見ていた風景とリンクするからなのかもしれないなって。そういう世界観を自分が持っているのに気づいて、「孤独と子ども」を作品のテーマに、作品を描くようになりました。

「絶望は受動だけれど、希望は能動。
その人が自分で気づいたり、見つけたりするもの」

下田さんがはじめて個展をしたのはいつですか?
2008年の夏にギャラリーを借りて個展をしました。今はもう無くなってしまったのですが、東京の曙橋にあったレンタルギャラリーを借りて2週間やりましたね。それが美術作家としてのデビューになります。特にテーマは設けず、青山塾で制作した課題作品やうさぎ耳が生えた子どもの絵を描いて展示販売しました。作品は少し売れましたが、ぜんぜん人は来なかったです。
あれから10年。今の活躍に至るターニングポイントはどこだと思いますか?
2011年の東日本大震災だと思います。2008年はちょうどアートが盛り上がっていた時期でもあったので、GEISAIやデザフェスなどのイベントに出たりギャラリーでの展示を続けていくごとに少しずつ売れるようになりました。ところが、2009年のリーマンショックで状況が一転、全く作品が売れなくなってしまったんです。そういう状況が2年間続きました。世の中の経済的な事情とはいえ、自分の絵にも何か問題があるのだと思い、改めて向き合ってみて気づいたのは、自分のやりたいテーマが、作品で伝わっていないということ。ステイトメントで書いている内容と作品が一致していなかったんです。アートフェアに出ても、観る人が「痛い、怖い」という絵の表面的な視覚情報だけで終わっていることに気づきました。私の作品はそこで思考が止まってしまうと困るなぁって。2011年4月に開催したニューヨークでの個展を機に、テーマももっとシンプルにしました。
反応はどうでしたか?
それでも反応はイマイチで。原因は色々あったと思うのですが、一番強く思ったことは、アメリカ人に伝わらない作品は日本人にも伝わらないだろうと。どうしたら伝わる作品になるのかを考えました。言葉がなくても海外の人に伝えるためには、言葉に頼らない共通言語が必要だと強く思いはじめたんです。
2011年4月ということは、震災があった直後の展示ですよね。
ニューヨークの展示は震災の前から決まっていたのですが、テレビでリアルタイムに津波の中継を見て、何もできずに傍観している自分の無力さをすごく感じました。長野に住んでいる私は被災者じゃないんですけど、ニューヨークへ行くと大変だったねって言われるんですよ。正直、美術作家としても人間としても何もできていないことが歯がゆくて。展示が終わって、改めて美術作家として何ができるだろうと。私は傍観者だけれど、だからこそ描ける絵があるかもしれない思ったときに、作品のテーマを、世界を救う救世主の話にしようと思ったんです。世界を救う話をしたいのであれば、海外の人にもわりやすいモチーフを選ぼうと。それで世界でも有名な世界を救う存在のセーラームーンと、世界共通のヒーロー・スーパーマンだなと思ったんです。
このテーマは今も継続して描かれていますが、手応えがあったんですね。
共通言語としてキャラクターを使うことで、外側からどう見えるようになったかというと、日本のサブカルチャーに影響を受けてきた私というのをすごくわかりやすく打ち出せて、言いたいことも、社会性を反映している作品を描くことができるようになりました。テーマを救世主にしたことで、もっと漫画のほうに寄せてもいいなと思い、絵のタッチを漫画的な描き方に、画材もアクリル絵の具から油彩に変えました。そうすることで今まで出せなかった、色のダイナミックさや繊細さも出せるようになって、同時に世界の混沌と重なりをテーマに今も継続しているミクストメデイアの作品もつくり始めました。一度にいろんなことが合致していった感じがあります。
朝日村で開催する個展のタイトルは『死と再生のカタストロフィ』ですが、
カタストロフィって「破局」という意味なので、世界を救うとは逆ですよね。
ここ2年くらいずっと考えて出てきた答えは、絶望は受動で、希望は能動だということ。絶望は周りから与えられることが多くて、自分から発生するものではない。でも希望は自分で気づいたり、見つけたりするもの。他人から与えられた希望というのは、その人にとっては本当の希望ではないと思うんです。だから絵でこれが希望、これが救いというのは私には言えないなって思ったんですよね。ただ、今のあなたたち、私たちが苦しい状況というのは、私は知っているから、観てくださる人の思いを代弁することで、自分の状況を整理したり、作品を通して自分の今いるところを共有できたりするので、私にはそれができるんじゃないかなと思うんですよ。もし私の作品が誰かの希望になったとしたら、私の作品から希望を実現させてたその人をこそ認めてあげたい。逆に、絶望の渦中にいる人の存在も無視したくない。そういう作品であればいいなと思っています。

「ここ(朝日村)にいて傍観している立場であるほうが
世の中を俯瞰で捉えられる」

下田さんにとって朝日村は孤独を感じた場所でもあると思うのですが、
朝日村で制作を続ける理由は。
現実的には安くて広いスペースが必要で、都会だと難しいというのがあります。ネットの発達によってどこに居ても活動ができるようになっているからこそ問題がないというのもあります。環境的にも雑音もないし、何もない状況を今はあまり否定することではないかなって。正直にいうと、周りに同じことを考えている人が近くにいて、すぐに情報交換ができるような場所があればいいなと思う時はあります。私は強制的にポジティブにしてくれるからアメリカ人の気質がすごく肌に合うので、アメリカを制作拠点にしてみたいとも思いますが、そうするとすごく明るい作品になっているかもしれないです(笑)。
今の作品は、この場所だからこそ描ける作品かもしれないですね。
そうですね。ここにいて傍観している立場でいるほうが世の中を俯瞰で捉えられるのかなって。ここ数年、作品に肌の黒い子を登場させているんですね。肌の白い子ばっかりを描いていると、その人種だけの問題になっちゃうと思うので、私が描いているテーマは世界の普遍的なこと、全人類におこりうることを描いています。日本の漫画アニメに登場する肌色の違うキャラクターは人種という区別ではなく、そのキャラクターの個性として描かれることが多く、そういう感覚のフラットさは日本人ならではだと思っていて。その感覚を持つ日本人の私が描くことに意味があるかなと思っています。
朝日村の環境が絵に影響を与えている部分はありますか?
画面の中に一人というのは、子どもの頃からずっと肌感覚としてあった部分です。その感覚は祖父母の畑に連れて行かれて、一人で畑仕事を見ながら孤独を感じていた記憶に影響されていると思います。どこを見渡しても空と畑と山しかないので、絵の中に稜線を入れておくとなぜか安心するのはありますね。落ち着くというほうがしっくりくるかもしれません。朝日村は盆地なので一見開けているように見えるのですが、四方を山に囲まれているので、稜線を描く位置も祖父母の畑から見ていた景色に影響を受けています。
朝日美術館で展示をするのはどういう気持ちですか。故郷に錦を飾るみたいな感じなのかと。
現状として朝日美術館へのアクセスの難しさや、認知度の低さもあるので、大変なほうを想像しました。手放しに大喜びではなかったですね。ただ、私は4年制の美大出身でもないし、賞もとっていないので、美術館でやるというのは意味としても経歴として大きいなと。日本でやる機会も少なくなってきているので、下田さん家のひかりちゃんは絵を描いているけれど、どんな絵を描いているのか知らないという地元の人は多いです。村や日本での私の実態がふわふわしているんですよ。だから、私という人間がこの村に居て、こういう絵を描いて、海外でやっているというのを朝日美術館で個展をすることで、地に足をつけたかった。村の身近な人にも観てもらえるのはすごく嬉しいです。
最後に今回の個展へ向けてメッセージをお願いします。
ここ10年の作品を展示します。日本ではまだ展示をしていない作品を含めて全部で約40点あるので、絵の変化と時代の流れを通して、美術家としての私の思考なども感じていただけるかなと思います。今はいろんな価値観が可視化されて、世の中の流れがどんどん加速しているのをみていると、人類や世界が破局に向かっているのを感じがするんですよ。その状況下で生まれてくる命がある。時には死が救いとなり、死にたい気持ちがいっぱいある世の中に生まれてきてしまった私たちが、この破局からどう再生していったらいいのか。私は傍観者の立場だという話をしましたが、常に世界の全員が傍観者であり間接的な当事者でもある。誰かのではなく自分の問題だということ。今回の個展で何が言いたいかというと、結果的には一緒に考えましょうということなんです。私はこう考えているので、あなたはどう思いますかというのを問いたい。自己完結にはしたくなくて、みんなでこの破局に向かう状況を考える機会になっていただけたら幸いですね。
下田ひかり
1984年長野県生まれ。短大卒業後、イラストレーターを目指し、イラストレーション青山塾で2年間学んだ後、2008年より現代アーティストとして活動を開始。子どもをモチーフとしながら、現代社会が抱えている問題をテーマにペインティングを制作。日本独自の「イラスト」表現をベースに、可愛いさと恐ろしさ、孤独が同居する世界を展開。書籍の装丁に作品が使われるなど、10代、20代の若年層を中心に、ネットを通じて国内外にファンを持つ。2011年から海外でも作品を発表。2014年7月にロサンゼルスのCorey Herford Galleryにて個展を開催以降、現在ではロサンゼルスを中心に海外で作品発表を行う機会が多い。個展・グループ展に多数参加。また、海外のネットメディアや雑誌等にインタビューを受ける機会も多い。

インタビュー・文:西川 有紀[G_GRAPHICS INC.]
写真:増田好郎